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第1話 銀の首輪が落ちた夜

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-07-27 07:03:58

第1話 銀の首輪が落ちた夜

 七つ目の鐘が鳴り終わると、大広間を満たしていた人々の息が、ひとつの大きなうねりとなって天井へ昇った。

 銀嶺狼群《ルーメル》に新たなアルファが立つ夜だった。

 高窓の外では雪が絶え間なく降っている。青白い月光は磨き上げられた石床に細長く差し込み、壁際に灯された獣脂の燭台を冷たく照らしていた。暖炉には太い薪が惜しみなくくべられているのに、壇上のすぐ下に跪くリュシエナの指先は、とうに感覚を失っていた。

 寒さのせいではない。

 首には、細工銀の輪が嵌められている。

 銀首輪《月環》。十六歳の婚約式で、ローディク自身の手によって着けられたものだ。四年間、一度も外されたことはない。入浴の時も、眠る時も、熱を出して寝込んだ時でさえ、それは彼女の喉元にあった。

 今夜、彼がアルファの座を継げば、月環に新たな誓印が刻まれる。

 そうして自分は正式なルナとなる――そのはずだった。

 白銀の旗が、吹き込む風もないのに微かに揺れた。壇上へ続く三段の階の上には、銀狼を彫った黒木の玉座が置かれている。その前に立つローディクは、儀礼用の濃紺の外套を肩から垂らし、胸元を銀の留め金で飾っていた。

 昨夜、リュシエナが縫い留め直したものだった。

 古い金具の裏にひびが入っていることに気づき、祝宴の備蓄を確かめ終えたあと、夜半まで灯りを残して直した。彼が大勢の前で恥をかかぬように。新しい統治の初日に、ほんの小さな綻びも生まれぬように。

 留め金は、今夜のために作られた品のように輝いている。

 ローディクは一度も、リュシエナを見なかった。

 代わりに彼の隣へ立っていたのは、淡い金桃色の髪を結い上げた少女だった。

 ミレシア。

 十八歳になったばかりの異母妹は、月白の衣を纏っていた。雪よりも淡い絹に銀糸で月桂樹を縫い取った、ルナだけに許される装いである。胸元には母ラヴィナから贈られた真珠が連なり、頬には祝宴の熱を映したような薄紅が差していた。

 彼女がわずかに身じろぎすると、柔らかな衣擦れが広間のざわめきを裂いた。

 リュシエナは自分の袖へ目を落とした。

 着ているのは、灰色の礼装だった。朝、用意されていた衣を疑いもしなかった。月白は宣誓の直前に運ばれるのだと侍女から聞かされ、頷いた。疑問を口にすれば、晴れの日に面倒を増やすなと叱られる気がしたからだ。

 だが、月白の衣は最初から一着しか仕立てられていなかったのだろう。

 自分のためではない一着が。

 広間の後方で、誰かが低く囁いた。

「やはり、妹君の方だったか」

「白狼を差し置いて、月なしを選ぶはずがない」

 押し殺した笑いが重なる。

 聞こえないふりは、もう身体に馴染んでいた。薬草庫で。食堂で。冬至の祈りの列で。狼へ変じた同年代の娘たちが雪原を駆けるたび、リュシエナだけが人の足で荷を運んでいた頃から、何度も繰り返してきたことだった。

 胸の前で重ねた両手に力を込める。右手の親指で左の指の節を押すと、鈍い痛みが戻ってきた。まだ、ここにいる。まだ倒れてはいない。

 父を捜した。

 財務長の席は壇上に近い。ガルディオ・フェルディスは濃灰の正装に身を包み、長老たちと肩を並べていた。横顔は石像のように硬い。娘の視線など気づいていないふりをして、月祠長の杖だけを見ている。

 その隣では、ラヴィナが胸元で指を組んでいた。

 視線が合う。

 継母は困った子を見るように眉尻を下げ、ほんの少しだけ微笑んだ。

 その唇が、音もなく動く。

 ――騒がないで。

 幼い頃から変わらない命令だった。

 苦い滋養薬を飲みきれずに咳き込んだ朝も、ミレシアの晴れ着を汚したと疑われた日も、獣魂の目覚めを祈る儀式で意識を失った夜も、ラヴィナは同じ目をしていた。優しげで、穏やかで、拒む余地だけをどこにも残さない目。

 首の内側が、ちくりと疼いた。

 月環が肌に擦れたのだと思った。けれど、鼻の奥を掠めたのは、磨いた銀の匂いだけではなかった。焦がした月花と、毎朝飲まされていた薬に似奥を掠めたた、舌の裏へまとわりつくような苦い匂い。

 すぐに燭台の煙へ紛れ、消える。

 壇上で、月祠長オルディスが杖を上げた。

 杖頭に埋め込まれた乳白色の石が、月光を受けて濁った光を返す。広間のざわめきが静まり、遅れて閉じられた扉の音だけが、重く床を這った。

 オルディスは長い沈黙ののち、杖の石突を打ち下ろした。

 硬い音が一度。

「ローディク・アルヴェスタ」

 深い声が広間を渡る。

「汝は先代の血と責務を受け継ぎ、弱き者を庇い、飢える者へ蓄えを開き、争う者へ公正な裁きを下すと誓うか」

「誓う」

 ローディクの返答は揺らがなかった。

 弱き者を庇う。

 その言葉が胸へ落ちても、痛みは遅れてやってきた。リュシエナは俯いたまま、彼の声を聞いていた。幼い彼が木剣の稽古で手を傷めた日、薬草を練って包帯を巻いたことがある。十七歳の冬、吹雪で倉庫の屋根が落ちた時には、二人で夜通し食糧を数え直した。

『お前は狼になれなくても、俺の隣に立てばいい』

 かつて、彼はそう言った。

 優しい声ではなかった。それでも当時のリュシエナには、初めて自分の居場所を与えられた言葉に思えた。

 思い出の中にしかいない少年と、目の前の男は、同じ輪郭をしているだけの別人のようだった。

 オルディスの杖が、再び床を打つ。

「新たなアルファよ。月神と群れの前で、汝が隣に立てる伴侶の名を宣言せよ」

 広間中の視線が集まった。

 リュシエナの項に、無数の針のように突き刺さる。

 ここで初めて、ローディクが彼女を見た。

 青銀の瞳は澄んでいた。怒りも憎しみもない。ただ、必要のなくなった道具を確かめるような静けさだけがある。

 リュシエナは、その目に自分の知らない迷いを探した。

 一瞬でいい。指先が動くか、呼吸が乱れるか、声が掠れるか。四年という歳月を捨てることに、わずかでも痛みがあると知りたかった。

 けれど彼は、玉座の前からまっすぐ彼女を見下ろし、告げた。

「俺は、獣魂すら持たない女をルナにはしない」

 声は大きくなかった。

 だからこそ、一語ずつが鮮明に届いた。

 広間のどこかで、息を吹き出す音がした。それを合図に、囁きが波のように広がる。

「当然だ」

「飾りを四年も置いたのだ。新アルファは十分に慈悲深い」

「子も望めぬ女ではな」

 暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が舞った。焙られた香草と獣脂の匂いが、急に息苦しいほど濃くなる。

 リュシエナは息を吸おうとした。

 喉が狭まり、空気が入らない。

 それでも、膝は崩さなかった。

 ミレシアが一歩、前へ出た。白い裾が階段を撫でる。

「お姉様」

 甘やかな声だった。

「どうか、ローディク様をお恨みにならないで。群れを守る方には、強い獣魂を持つ伴侶が必要なの。お姉様も、ずっと分かっていらしたでしょう?」

 妹は悲しそうに目を伏せた。しかし、首元へ触れた指は、まだそこにない月環の位置を確かめるようにゆっくり撫でている。

 何を答えても、醜く映るようにできた問いだった。

 恨んでいないと言えば、拒絶は正しいと認めることになる。恨んでいると言えば、新しいルナを妬む無能な姉となる。

 リュシエナは唇を開きかけ、閉じた。

 沈黙した彼女の代わりに、ラヴィナが小さく息をついた。その音は遠いはずなのに、耳元で聞こえた気がした。

 ローディクは妹へ手を差し伸べた。ミレシアの指が重なった瞬間、彼の表情がわずかに和らぐ。

 その変化を見た時、胸の奥で何かが静かに折れた。

 怒鳴り声も、涙もなかった。

 ただ、昨夜まで大切に抱えていたものが、初めから自分のものではなかったと分かった。

 ローディクが再び口を開く。

「リュシエナ・フェルディス」

 名を呼ばれ、彼女は顔を上げた。

「俺、銀嶺狼群《ルーメル》のアルファ、ローディク・アルヴェスタは、お前を伴侶として拒絶する」

 月環が鳴った。

 耳ではなく、骨の内側で聞こえる音だった。

 銀の輪が一息に冷え、喉へ食い込む。細い刃を首へ回され、そのまま締め上げられたような痛みが走った。胸の中心を見えない爪に貫かれ、息が途切れる。

「……っ」

 声にもならない息が漏れた。

 視界が白く染まる。床へついた膝の感覚が消え、身体が傾いた。咄嗟に指を開き、石床へ触れる寸前で堪える。爪先が冷たい目地を掻いた。

 倒れてはいけない。

 ここで倒れれば、やはり弱い女だったと笑われる。

 幼い頃から、痛みを見せるたびに言われてきた。ミレシアを不安にさせるな。父の立場を悪くするな。家へ迷惑をかけるな。

 耐えることだけが、自分に許された役目だった。

 月環の内側から何かが滲み、傷ついた皮膚へ染み込む。熱いのか冷たいのかさえ分からない。朝の薬に似た苦みが喉の奥へ広がり、胃が強く縮んだ。

 オルディスは、彼女の異変に気づいているはずだった。

 だが月祠長は助け起こそうともせず、杖の両側へ指を重ねた。その右の袖口から、細い紫色の紐が覗いている。月環の保管箱にだけ結ばれる、封印の紐だった。

 なぜ、それが彼の袖に残っているのか。

 疑問は形になる前に、痛みへ呑まれた。

「返答を」

 オルディスが促す。

 拒絶を成立させるには、拒まれた側の返答が要る。

 受け入れなければ、月神殿へ審理を求めることができた。契約の経緯も、ルナ候補として果たしてきた責務も、群れの前で改めて問える。

 リュシエナは父を見た。

 今度こそ、ガルディオも娘の視線を無視できなかった。ゆっくりとこちらへ顔を向ける。だが、その目にあったのは心配ではない。

 苛立ちだった。

 早く済ませろ、と。

 長老たちは沈黙していた。冬の配給を減らされかけた時、リュシエナが帳簿を調べ直して救った老人もいた。産後に熱を出した妻のため、夜中に薬草庫を開けてやった兵士もいる。飢饉の年に、自分の配給を子どもへ分けたことを知る母親もいた。

 誰も、目を合わせなかった。

 ただ、後方の使用人の列で、侍女のエナラだけが青ざめた顔を上げていた。両手で口元を押さえ、泣くことさえ許されないように肩を震わせている。

 ひとりだけだった。

 だが、そのひとりがいたから、リュシエナは自分まで自分を見捨ててはならないと思った。

 震える息を、ゆっくり吐く。

「リュシエナ」

 ローディクの声が低くなる。

「返答しろ。最後くらい、群れへ迷惑をかけるな」

 最後くらい。

 まるで、自分がこれまで迷惑しか生まなかったかのような言葉だった。

 四年間の帳簿も、冬ごとの備蓄も、怪我人へ巻いた包帯も、彼の衣を直した夜も、その一言で何もなかったことにされた。

 胸の痛みの底で、ごく小さなものが動いた。

 声のようでもあり、まだ目を開けられない獣の寝息のようでもあった。

 ――違う。

 誰の声かは分からない。

 リュシエナは喉元を締める銀に耐えながら、ゆっくり背を伸ばした。

「……拒絶を」

 声が掠れる。

 広間が静まり返った。

 彼女は一度だけ唾を呑み、血の味と、あの苦い薬の味を喉へ押し戻した。

「受け入れます」

 誰かが安堵の息を吐いた。

 それは祝福よりも深く、残酷に響いた。

 ローディクが階段を下りてくる。硬い靴音が一段ごとに近づき、リュシエナの前で止まった。濃紺の外套の裾が視界を塞ぐ。

 彼は屈み、月環へ右手をかけた。

 指が首筋に触れても、何の熱も伝わらない。かつて婚約式で同じ場所へ触れた時、彼の手は震えていた。今は留め具の位置を迷うことさえなかった。

 金属が小さく軋む。

 首の後ろで爪が立ち、皮膚が裂けた。

「痛……」

 短い声が漏れたが、ローディクは手を止めない。

 外れた瞬間、四年間の契約が細い糸となって全身から引き抜かれた。

 胸を貫いていた痛みが、今度は内側から身体を裂く。リュシエナの肩が大きく揺れ、呼吸が壊れた。首筋から流れた血が鎖骨を伝い、灰色の襟へ吸い込まれていく。

 ローディクの手の中で、古い月環が鈍く光った。

 内側に、針先ほどの黒い染みがいくつも浮いていた。

 彼はそれに気づいたように親指を止めた。だが何も言わず、握り込んで隠す。

 代わりに、オルディスが差し出した白木の箱から、新しい銀首輪を取り上げた。

 傷ひとつない銀。

 月を抱く二頭の狼が、中央で向かい合っている。

「ミレシア」

 呼びかける声には、先ほどまでなかった温度があった。

 妹は幸福に目を潤ませ、金桃色の髪を持ち上げて項を差し出す。ローディクは彼女の背後へ回り、自らの手で新しい月環を着けた。

 澄んだ留め金の音がする。

「俺が選ぶ番は、ミレシアだ」

 一瞬の静寂ののち、歓声が弾けた。

 銀の杯が掲げられ、足が踏み鳴らされる。若い狼たちの咆哮が梁を震わせ、祝福の鐘が高窓の向こうで鳴り始めた。

 ミレシアはローディクへ寄り添い、まぶしいほどに笑っている。

 父はようやく表情を緩めた。

 ラヴィナは目元へ指を当て、喜びの涙を拭う仕草をした。

 そのすべてを、リュシエナは壇上の下から見上げていた。

 まだ、立つようにも、退くようにも命じられていない。

 血に濡れた首を晒したまま、祝福のための背景として跪いている。

 ローディクは手に残っていた古い月環へ一度視線を落とした。黒い染みを見られることを厭うように指を閉じ、それから何でもない物のように手を離す。

 銀の輪が石床へ落ちた。

 甲高い音が、歓声の底を滑っていく。

 一度跳ね、二度転がり、リュシエナの膝から少し離れた月光の中で止まった。

 四年間、彼女の首にあったもの。

 彼女が耐えれば、いつか居場所へ変わると信じていたもの。

 人々の靴が、その周りを通り過ぎていく。

 誰も屈まない。

 誰も手を伸ばさない。

 やがて祝宴の太鼓が鳴り始めても、血の付いた銀首輪だけが、冷たい石床の上に残されていた。

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