ログイン第1話 銀の首輪が落ちた夜
七つ目の鐘が鳴り終わると、大広間を満たしていた人々の息が、ひとつの大きなうねりとなって天井へ昇った。
銀嶺狼群《ルーメル》に新たなアルファが立つ夜だった。
高窓の外では雪が絶え間なく降っている。青白い月光は磨き上げられた石床に細長く差し込み、壁際に灯された獣脂の燭台を冷たく照らしていた。暖炉には太い薪が惜しみなくくべられているのに、壇上のすぐ下に跪くリュシエナの指先は、とうに感覚を失っていた。
寒さのせいではない。
首には、細工銀の輪が嵌められている。
銀首輪《月環》。十六歳の婚約式で、ローディク自身の手によって着けられたものだ。四年間、一度も外されたことはない。入浴の時も、眠る時も、熱を出して寝込んだ時でさえ、それは彼女の喉元にあった。
今夜、彼がアルファの座を継げば、月環に新たな誓印が刻まれる。
そうして自分は正式なルナとなる――そのはずだった。
白銀の旗が、吹き込む風もないのに微かに揺れた。壇上へ続く三段の階の上には、銀狼を彫った黒木の玉座が置かれている。その前に立つローディクは、儀礼用の濃紺の外套を肩から垂らし、胸元を銀の留め金で飾っていた。
昨夜、リュシエナが縫い留め直したものだった。
古い金具の裏にひびが入っていることに気づき、祝宴の備蓄を確かめ終えたあと、夜半まで灯りを残して直した。彼が大勢の前で恥をかかぬように。新しい統治の初日に、ほんの小さな綻びも生まれぬように。
留め金は、今夜のために作られた品のように輝いている。
ローディクは一度も、リュシエナを見なかった。
代わりに彼の隣へ立っていたのは、淡い金桃色の髪を結い上げた少女だった。
ミレシア。
十八歳になったばかりの異母妹は、月白の衣を纏っていた。雪よりも淡い絹に銀糸で月桂樹を縫い取った、ルナだけに許される装いである。胸元には母ラヴィナから贈られた真珠が連なり、頬には祝宴の熱を映したような薄紅が差していた。
彼女がわずかに身じろぎすると、柔らかな衣擦れが広間のざわめきを裂いた。
リュシエナは自分の袖へ目を落とした。
着ているのは、灰色の礼装だった。朝、用意されていた衣を疑いもしなかった。月白は宣誓の直前に運ばれるのだと侍女から聞かされ、頷いた。疑問を口にすれば、晴れの日に面倒を増やすなと叱られる気がしたからだ。
だが、月白の衣は最初から一着しか仕立てられていなかったのだろう。
自分のためではない一着が。
広間の後方で、誰かが低く囁いた。
「やはり、妹君の方だったか」
「白狼を差し置いて、月なしを選ぶはずがない」
押し殺した笑いが重なる。
聞こえないふりは、もう身体に馴染んでいた。薬草庫で。食堂で。冬至の祈りの列で。狼へ変じた同年代の娘たちが雪原を駆けるたび、リュシエナだけが人の足で荷を運んでいた頃から、何度も繰り返してきたことだった。
胸の前で重ねた両手に力を込める。右手の親指で左の指の節を押すと、鈍い痛みが戻ってきた。まだ、ここにいる。まだ倒れてはいない。
父を捜した。
財務長の席は壇上に近い。ガルディオ・フェルディスは濃灰の正装に身を包み、長老たちと肩を並べていた。横顔は石像のように硬い。娘の視線など気づいていないふりをして、月祠長の杖だけを見ている。
その隣では、ラヴィナが胸元で指を組んでいた。
視線が合う。
継母は困った子を見るように眉尻を下げ、ほんの少しだけ微笑んだ。
その唇が、音もなく動く。
――騒がないで。
幼い頃から変わらない命令だった。
苦い滋養薬を飲みきれずに咳き込んだ朝も、ミレシアの晴れ着を汚したと疑われた日も、獣魂の目覚めを祈る儀式で意識を失った夜も、ラヴィナは同じ目をしていた。優しげで、穏やかで、拒む余地だけをどこにも残さない目。
首の内側が、ちくりと疼いた。
月環が肌に擦れたのだと思った。けれど、鼻の奥を掠めたのは、磨いた銀の匂いだけではなかった。焦がした月花と、毎朝飲まされていた薬に似奥を掠めたた、舌の裏へまとわりつくような苦い匂い。
すぐに燭台の煙へ紛れ、消える。
壇上で、月祠長オルディスが杖を上げた。
杖頭に埋め込まれた乳白色の石が、月光を受けて濁った光を返す。広間のざわめきが静まり、遅れて閉じられた扉の音だけが、重く床を這った。
オルディスは長い沈黙ののち、杖の石突を打ち下ろした。
硬い音が一度。
「ローディク・アルヴェスタ」
深い声が広間を渡る。
「汝は先代の血と責務を受け継ぎ、弱き者を庇い、飢える者へ蓄えを開き、争う者へ公正な裁きを下すと誓うか」
「誓う」
ローディクの返答は揺らがなかった。
弱き者を庇う。
その言葉が胸へ落ちても、痛みは遅れてやってきた。リュシエナは俯いたまま、彼の声を聞いていた。幼い彼が木剣の稽古で手を傷めた日、薬草を練って包帯を巻いたことがある。十七歳の冬、吹雪で倉庫の屋根が落ちた時には、二人で夜通し食糧を数え直した。
『お前は狼になれなくても、俺の隣に立てばいい』
かつて、彼はそう言った。
優しい声ではなかった。それでも当時のリュシエナには、初めて自分の居場所を与えられた言葉に思えた。
思い出の中にしかいない少年と、目の前の男は、同じ輪郭をしているだけの別人のようだった。
オルディスの杖が、再び床を打つ。
「新たなアルファよ。月神と群れの前で、汝が隣に立てる伴侶の名を宣言せよ」
広間中の視線が集まった。
リュシエナの項に、無数の針のように突き刺さる。
ここで初めて、ローディクが彼女を見た。
青銀の瞳は澄んでいた。怒りも憎しみもない。ただ、必要のなくなった道具を確かめるような静けさだけがある。
リュシエナは、その目に自分の知らない迷いを探した。
一瞬でいい。指先が動くか、呼吸が乱れるか、声が掠れるか。四年という歳月を捨てることに、わずかでも痛みがあると知りたかった。
けれど彼は、玉座の前からまっすぐ彼女を見下ろし、告げた。
「俺は、獣魂すら持たない女をルナにはしない」
声は大きくなかった。
だからこそ、一語ずつが鮮明に届いた。
広間のどこかで、息を吹き出す音がした。それを合図に、囁きが波のように広がる。
「当然だ」
「飾りを四年も置いたのだ。新アルファは十分に慈悲深い」
「子も望めぬ女ではな」
暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が舞った。焙られた香草と獣脂の匂いが、急に息苦しいほど濃くなる。
リュシエナは息を吸おうとした。
喉が狭まり、空気が入らない。
それでも、膝は崩さなかった。
ミレシアが一歩、前へ出た。白い裾が階段を撫でる。
「お姉様」
甘やかな声だった。
「どうか、ローディク様をお恨みにならないで。群れを守る方には、強い獣魂を持つ伴侶が必要なの。お姉様も、ずっと分かっていらしたでしょう?」
妹は悲しそうに目を伏せた。しかし、首元へ触れた指は、まだそこにない月環の位置を確かめるようにゆっくり撫でている。
何を答えても、醜く映るようにできた問いだった。
恨んでいないと言えば、拒絶は正しいと認めることになる。恨んでいると言えば、新しいルナを妬む無能な姉となる。
リュシエナは唇を開きかけ、閉じた。
沈黙した彼女の代わりに、ラヴィナが小さく息をついた。その音は遠いはずなのに、耳元で聞こえた気がした。
ローディクは妹へ手を差し伸べた。ミレシアの指が重なった瞬間、彼の表情がわずかに和らぐ。
その変化を見た時、胸の奥で何かが静かに折れた。
怒鳴り声も、涙もなかった。
ただ、昨夜まで大切に抱えていたものが、初めから自分のものではなかったと分かった。
ローディクが再び口を開く。
「リュシエナ・フェルディス」
名を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「俺、銀嶺狼群《ルーメル》のアルファ、ローディク・アルヴェスタは、お前を伴侶として拒絶する」
月環が鳴った。
耳ではなく、骨の内側で聞こえる音だった。
銀の輪が一息に冷え、喉へ食い込む。細い刃を首へ回され、そのまま締め上げられたような痛みが走った。胸の中心を見えない爪に貫かれ、息が途切れる。
「……っ」
声にもならない息が漏れた。
視界が白く染まる。床へついた膝の感覚が消え、身体が傾いた。咄嗟に指を開き、石床へ触れる寸前で堪える。爪先が冷たい目地を掻いた。
倒れてはいけない。
ここで倒れれば、やはり弱い女だったと笑われる。
幼い頃から、痛みを見せるたびに言われてきた。ミレシアを不安にさせるな。父の立場を悪くするな。家へ迷惑をかけるな。
耐えることだけが、自分に許された役目だった。
月環の内側から何かが滲み、傷ついた皮膚へ染み込む。熱いのか冷たいのかさえ分からない。朝の薬に似た苦みが喉の奥へ広がり、胃が強く縮んだ。
オルディスは、彼女の異変に気づいているはずだった。
だが月祠長は助け起こそうともせず、杖の両側へ指を重ねた。その右の袖口から、細い紫色の紐が覗いている。月環の保管箱にだけ結ばれる、封印の紐だった。
なぜ、それが彼の袖に残っているのか。
疑問は形になる前に、痛みへ呑まれた。
「返答を」
オルディスが促す。
拒絶を成立させるには、拒まれた側の返答が要る。
受け入れなければ、月神殿へ審理を求めることができた。契約の経緯も、ルナ候補として果たしてきた責務も、群れの前で改めて問える。
リュシエナは父を見た。
今度こそ、ガルディオも娘の視線を無視できなかった。ゆっくりとこちらへ顔を向ける。だが、その目にあったのは心配ではない。
苛立ちだった。
早く済ませろ、と。
長老たちは沈黙していた。冬の配給を減らされかけた時、リュシエナが帳簿を調べ直して救った老人もいた。産後に熱を出した妻のため、夜中に薬草庫を開けてやった兵士もいる。飢饉の年に、自分の配給を子どもへ分けたことを知る母親もいた。
誰も、目を合わせなかった。
ただ、後方の使用人の列で、侍女のエナラだけが青ざめた顔を上げていた。両手で口元を押さえ、泣くことさえ許されないように肩を震わせている。
ひとりだけだった。
だが、そのひとりがいたから、リュシエナは自分まで自分を見捨ててはならないと思った。
震える息を、ゆっくり吐く。
「リュシエナ」
ローディクの声が低くなる。
「返答しろ。最後くらい、群れへ迷惑をかけるな」
最後くらい。
まるで、自分がこれまで迷惑しか生まなかったかのような言葉だった。
四年間の帳簿も、冬ごとの備蓄も、怪我人へ巻いた包帯も、彼の衣を直した夜も、その一言で何もなかったことにされた。
胸の痛みの底で、ごく小さなものが動いた。
声のようでもあり、まだ目を開けられない獣の寝息のようでもあった。
――違う。
誰の声かは分からない。
リュシエナは喉元を締める銀に耐えながら、ゆっくり背を伸ばした。
「……拒絶を」
声が掠れる。
広間が静まり返った。
彼女は一度だけ唾を呑み、血の味と、あの苦い薬の味を喉へ押し戻した。
「受け入れます」
誰かが安堵の息を吐いた。
それは祝福よりも深く、残酷に響いた。
ローディクが階段を下りてくる。硬い靴音が一段ごとに近づき、リュシエナの前で止まった。濃紺の外套の裾が視界を塞ぐ。
彼は屈み、月環へ右手をかけた。
指が首筋に触れても、何の熱も伝わらない。かつて婚約式で同じ場所へ触れた時、彼の手は震えていた。今は留め具の位置を迷うことさえなかった。
金属が小さく軋む。
首の後ろで爪が立ち、皮膚が裂けた。
「痛……」
短い声が漏れたが、ローディクは手を止めない。
外れた瞬間、四年間の契約が細い糸となって全身から引き抜かれた。
胸を貫いていた痛みが、今度は内側から身体を裂く。リュシエナの肩が大きく揺れ、呼吸が壊れた。首筋から流れた血が鎖骨を伝い、灰色の襟へ吸い込まれていく。
ローディクの手の中で、古い月環が鈍く光った。
内側に、針先ほどの黒い染みがいくつも浮いていた。
彼はそれに気づいたように親指を止めた。だが何も言わず、握り込んで隠す。
代わりに、オルディスが差し出した白木の箱から、新しい銀首輪を取り上げた。
傷ひとつない銀。
月を抱く二頭の狼が、中央で向かい合っている。
「ミレシア」
呼びかける声には、先ほどまでなかった温度があった。
妹は幸福に目を潤ませ、金桃色の髪を持ち上げて項を差し出す。ローディクは彼女の背後へ回り、自らの手で新しい月環を着けた。
澄んだ留め金の音がする。
「俺が選ぶ番は、ミレシアだ」
一瞬の静寂ののち、歓声が弾けた。
銀の杯が掲げられ、足が踏み鳴らされる。若い狼たちの咆哮が梁を震わせ、祝福の鐘が高窓の向こうで鳴り始めた。
ミレシアはローディクへ寄り添い、まぶしいほどに笑っている。
父はようやく表情を緩めた。
ラヴィナは目元へ指を当て、喜びの涙を拭う仕草をした。
そのすべてを、リュシエナは壇上の下から見上げていた。
まだ、立つようにも、退くようにも命じられていない。
血に濡れた首を晒したまま、祝福のための背景として跪いている。
ローディクは手に残っていた古い月環へ一度視線を落とした。黒い染みを見られることを厭うように指を閉じ、それから何でもない物のように手を離す。
銀の輪が石床へ落ちた。
甲高い音が、歓声の底を滑っていく。
一度跳ね、二度転がり、リュシエナの膝から少し離れた月光の中で止まった。
四年間、彼女の首にあったもの。
彼女が耐えれば、いつか居場所へ変わると信じていたもの。
人々の靴が、その周りを通り過ぎていく。
誰も屈まない。
誰も手を伸ばさない。
やがて祝宴の太鼓が鳴り始めても、血の付いた銀首輪だけが、冷たい石床の上に残されていた。
黒森の旧祭壇でヴァルゼインと別れた翌夜、レグナードは王都から北西へ二日ほど離れた古い狩猟館にいた。グレイヴァルが生きていた頃には王族の冬狩りに使われていた建物だが、反乱後に王家の所有記録から外され、今では街道図にも載っていない。暖炉には火が入っているものの、長年使われていなかった石壁には湿った冷気が染みつき、窓の外では細かな雪が森を白く埋めていた。レグナードは卓上へ広げた黒曜王国の地図を眺めながら、旧祭壇で見た銀狼の女の言葉を思い返していた。《私は連れてこられたのではありません。自分で来ました》あの一言だけが、妙に耳へ残っている。王の運命の番として守られ、黒曜城へ囲われている女だと思っていたが、実際のリュシエナは想像より扱いにくかった。ヴァルゼインの後ろへ隠れず、前へ出て庇わせることもせず、同じ位置へ立った。番拒みの薬まで飲み、それでも一緒に旧祭壇へ来たという話が嘘でなければ、月神殿から教えられてきた《銀狼と黒狼》の形とも少し違っている。扉が三度叩かれた。「入れ」現れたのは、白い祭服の上へ旅用の外套を羽織った男だった。年齢は四十を少し越えたほどで、月神殿の高位神官に共通する銀糸の帯を腰へ巻いている。名はセルディオ。月祠長オルディスの側近であり、レグナードが少年だった頃から何度も月神殿の意思を伝えてきた男でもあった。「レグナード殿下」その呼び方に、レグナードは片眉を上げた。「まだ殿下か。お前たちの話では、俺はいずれ王になるはずだっただろう」「王位を取り戻されるまでは、殿下でございます」「便利な言葉だな」セルディオは皮肉へ反応せず、卓上へ細長い箱を置いた。封は月神殿の白蝋で閉じられている。レグナードはすぐには触れず、椅子へ深く腰掛けたまま相手を見た。幼い頃から、こうだった。父グレイヴァルは正統な黒狼王になるはずだった。ガルディオンに奪われた。反乱ではなく、王位を取り戻す戦いだった。父を殺した王家は簒奪者であり、その血を継ぐヴァルゼインから王冠を奪い返すことこそ、息子であるレグナードの使命だ。物心がついた頃から。何度も。何度も。そう教えられた。母と逃げた村から村へ移り、名前を変えるたび、レグナードは自分が何者なのか分からなくなった。それでも夜になれば、母は首から外した幼児用の銀首輪を見せ、「これはあなたが王家の子だった証よ」と言った。
月祠長オルディス・メルカーンが黒曜王都へ入ったという報告を受け、ヴァルゼインとリュシエナは予定より早く城へ戻ることになった。先ほどまで市場の甘い焼き菓子や、子どもから渡された雪の狼について笑っていた空気は消え、少し先では護衛が周囲を警戒しながら道を開いている。それでも二人の歩幅だけは急ぎすぎず、城下から王宮へ続く坂道を並んで上っていた。オルディスが何のために来たのか、銀狼の封印についてどこまで認めるつもりなのか、考え始めれば聞きたいことはいくらでもある。それなのにリュシエナの胸には、先ほど川辺で過ごした静かな時間の余韻がまだ残っていた。ヴァルゼインも、すぐには政務の話をしなかった。王都へ入った月神殿一行については先行した伝令とセイグが情報を集めており、城へ戻るまでにできることは少ない。普段ならその短い時間すら使って警備配置や面会順を考え始めそうな男が、今日は何度か口を開きかけては閉じていた。共鳴を通して黒狼の気配が僅かに揺れるのを感じても、リュシエナはそこから答えを読み取ろうとはしなかった。七日間、獣魂に頼らず相手を見ることを覚えたからこそ、今もヴァルゼイン自身が言葉にするまで待ちたいと思えた。王宮の外壁が見え始めた頃、ヴァルゼインが不意に足を緩めた。「リュシエナ」「はい」呼ばれて横を見ると、暗い金色の瞳がまっすぐこちらへ向けられていた。戦況を確認する時とも、監査の判断を求める時とも違う視線だった。何かを決めさせるような圧力はない。それでも、これから尋ねられることが軽い話ではないのだと分かり、リュシエナも自然に歩みを少し緩めた。「俺をどう思っている」あまりにも直接的だった。リュシエナは言葉を失った。「……急ですね」「そうだな」「何か理由があるのですか」「ある」ヴァルゼインはそこで一度前を向いた。雪を踏む靴音が二人分、一定の間隔で続く。少し離れた護衛たちは会話が聞こえない距離を保っており、城門までの道には他の通行人もいなかった。「昨日、お前が俺とまた城下へ来たいと言った」「言いました」「今日も、会えば嬉しいと思った」リュシエナが目を瞬く。「それは……共鳴で分かったのですか」「違う」即答だった。「顔を見た」胸の奥が少し熱くなる。「俺も、同じだった」ヴァルゼインは淡々と続ける。「それで、自分が何を望んでいるのかを考えた」
ヴァルゼインに休日がないことへ気づいたのは、リュシエナが王宮の冬季薬糧配給記録と、王付き厨房の食材使用記録を照合していた時だった。本来なら、王の食事そのものを監査する必要はない。けれど冬至祭の暗殺未遂以降、王へ出される食材と薬については、異常な増減がないかだけ定期的に確認することになっていた。その途中、厨房側の帳簿へ残された食事の受領時刻が不自然に偏っていることへ気づいた。朝食が昼近くまで手つかずの日、昼食と夕食をまとめて取った日、夜半に冷えた食事だけを運ばせた日が、あまりにも多い。「これ、いつからですか」リュシエナが帳簿を持ったまま尋ねると、厨房を預かる老女は困ったように眉を下げた。「陛下が即位されてから、ずっとあんなものですよ。食べることを忘れる、寝ることを忘れる、休むよう申し上げれば仕事が残っていると仰る。先代の頃から仕えておりますが、あれほど扱いにくい王様も珍しいです」即位してから。十八歳で王位を継いだ。ヴァルゼインは現在二十八歳だから、十年。リュシエナは帳簿を閉じた。その日の午後、王の執務予定表まで確認して、さらに眉間へ皺を寄せることになった。評議会、軍務報告、司法裁可、各領からの請願、外交書簡、夜間の警備確認。その間に訓練と食事を無理に挟み、深夜にも翌日の資料へ目を通す。休息として記載された日はあるものの、その欄には決まって別の仕事が書き足されていた。完全に政務から離れた日は、少なくとも過去一年間には一日もない。リュシエナは予定表を抱えて、そのまま王の執務室へ向かった。「休んでください」開口一番そう言われ、ヴァルゼインは書類から顔を上げた。「何だ」「休んでください」「聞こえている」「では休んでください」ヴァルゼインは一度、目の前の書類へ視線を落とした。「必要ない」「必要です」「監査官の権限外だ」予想していた答えだった。リュシエナは持ってきた帳簿を机へ置いた。「では、薬糧監査官として申し上げます」ヴァルゼインの眉が僅かに動く。「睡眠不足と不規則な食事による判断能力低下は、王宮全体の運営上の危険です。陛下が判断を誤れば、薬糧配給にも影響します」「無理がある」「ありません」「ある」「ネルーヴァ様にも確認しました」そこで初めて、ヴァルゼインが完全に筆を止めた。扉の近くで資料を整理していたセイグが、
共鳴が戻った翌朝、リュシエナは目を覚ますより先に、遠くにいる黒狼の気配を感じ取った。西棟のさらに奥、王の私室ではなく執務区画の方角に、低く安定した熱がある。七日間、それがなくても一日を過ごせることを知ったはずなのに、戻った気配を見つけただけで胸の奥の銀狼が嬉しそうに身を起こした。リュシエナ自身も、少しだけ口元が緩むのを止めなかった。以前なら、この反応が自分のものなのか獣魂のものなのかを考えるだけで不安になった。けれど番拒みの薬が効いていた七日間、銀狼が静かでもヴァルゼインのことを考え、会えば嬉しくなり、彼の言葉を聞きたいと思った。その事実はもう消えない。共鳴が戻った今、二つの気持ちが同じ方向を向いているからといって、それを疑い続ける必要はないのだと少しずつ分かり始めていた。午前の仕事を終えた頃、王付きの侍従が短い書面を持ってきた。内容は面会の申し入れで、場所はネルーヴァの治療室に隣接する小応接室と指定されている。文末には《身体と獣魂に関する話をしたい。ネルーヴァにも同席を頼んだ》とあり、リュシエナは何を話すつもりなのかおおよその見当がついた。指定された時刻に応接室へ入ると、ヴァルゼインはすでに窓側の椅子へ座っていた。ネルーヴァは卓上へ三冊の古い記録を並べ、いつものように面倒そうな顔をしている。共鳴が戻ったせいで、部屋へ入った瞬間に黒狼が銀狼へ意識を向けたことまで分かったが、ヴァルゼイン本人は立ち上がらず、リュシエナが自分で席を選ぶのを待った。「話とは何でしょう」向かいへ座って尋ねると、ヴァルゼインは遠回しにせず答えた。「番契を結ぶつもりはあるか」リュシエナはすぐには答えなかった。黒狼がその言葉へ強く反応し、胸の奥の銀狼も一瞬で身を乗り出したのが分かる。互いの獣魂だけなら、答えは最初から決まっているのだろう。近づきたい、結びたい、相手を自分の番として確かな形へしたいという欲求が、共鳴を通して鮮明に伝わってくる。それでもヴァルゼインは、何も促さなかった。「これは求婚ですか」「違う」「王命でも?」「違う」「番だから当然に結ぶものだと?」「それも違う」そこでリュシエナはようやく息を吐いた。聞かれているのは承諾だけではない。拒否も、保留も含めて、自分で答えを出すための確認なのだと分かった。「結んだら、何が変わりますか」ヴァルゼインの視線がネル
《番拒み》を飲んでから七日目の朝、リュシエナは目を覚ますと同時に、自分の胸へ手を当てた。まだ静かだった。銀狼は確かにそこにいるが、ヴァルゼインへ伸びていた共鳴だけは薄い膜の向こうへ隠れたままで、彼が王宮のどこにいるのかも、眠っているのか起きているのかも分からない。七日前にはその空白が胸を抉るように感じられたのに、今はもう、この静けさの中で自分の感情を探すことにも慣れていた。会えなくても一日は過ごせるし、共鳴がなくても仕事はできる。それでも、今朝最初に考えたのが彼のことだった事実を、リュシエナはもう否定しなかった。午前中、ネルーヴァの診察を受けると、治療師は薬瓶と脈拍記録を見比べながら眉を寄せた。「今日の夕刻から夜にかけて、ほぼ確実に切れるわ」「時間までは分からないのですか」「体格と獣魂の強さで差が出るもの。あなたは完全変身したばかりで銀狼も強いから、普通の例をそのまま当てはめられない」ネルーヴァは記録を閉じると、今度は少し厳しい目を向けた。「だから、戻る瞬間だけ二人を分ける」リュシエナは思わず顔を上げる。「会わない方がいいのですか」「会うなとは言ってない。戻る瞬間に隣へ置かないだけ」薬によって七日間弱められていた共鳴が一気に戻れば、銀狼も黒狼も反動で強く相手を求める可能性がある。完全変身後のリュシエナは以前より獣魂との境界が薄く、ヴァルゼインもまた黒狼の欲求を抑え続けている。その二頭を目の前へ置いた状態で共鳴だけを突然戻せば、理性より先に身体が動く危険があると説明された。「別々の部屋で待って、戻ったことを自分で認識する。それから、会いたいなら出ればいい」ネルーヴァの言葉へ、リュシエナは静かに頷いた。「陛下も?」「同じ説明をしたわ」「何と?」「分かった、ですって。いつも通り」少しだけ笑いそうになる。姿を見なくても、その返事だけは想像できた。午後になると、王宮西側にある二つの静養室が用意された。長い回廊の両端近くに位置し、互いの部屋は扉を開けても直接見えない。間には人の歩幅で五十歩以上あり、ネルーヴァと数人の治療師が中央付近で待機することになった。扉には鍵を掛けない。獣魂を閉じ込められたと感じさせないためであり、出るかどうかも本人たちへ委ねられていた。部屋へ入る前、リュシエナは回廊の反対側を見た。ヴァルゼインはもう自分の部屋へ
王家文書庫で見つかった《銀狼が再び生まれれば、黒狼王家の封じられた契約が開く》という一文は、その翌日から調査の中心になった。ガルディオンが月神殿へ銀狼の封印を黙認した時代より、さらに古い記録であり、ヴァルゼインが生まれる前どころか、先王自身がまだ幼かった頃に書かれた報告書だった。問題は、その文中にある《封じられた契約》が何を指すのか、現在の王家文書官ですら即答できなかったことだった。法的な契約を示す文書なら索引に残っているはずなのに、その名に対応する記録が見当たらない。「王家の契約なら、なぜ索引にないのですか」リュシエナが尋ねると、古文書官は困ったように白い眉を寄せた。「契約という語が、現在使われている法的な意味とは限りません。古代語では、盟約、誓約、祭祀、共同統治まで同じ語で記される場合があります」「つまり、名前から探しても見つからない」セイグが言うと、古文書官は頷いた。「ああ。関連する時代を広げるしかない」それからさらに二日、王家文書庫だけでなく、旧祭祀記録、黒曜城建設以前の群れの記録、王都地下神殿から移された石板の写しまで調べることになった。リュシエナは朝から夜まで机へ向かい、銀狼、白銀、月狼、鎮魂、共鳴という語が出るものを一つずつ拾った。ヴァルゼインも王務の合間に加わり、セイグとエルグラドが年代と出所を整理する。古文書は現在の文字と形が違ううえ、同じものを指す言葉も時代ごとに変わるため、わずかな記述を辿るだけでも何冊もの記録を照合しなければならなかった。三日目の午後、最初に見つけたのは王家の記録ではなく、現在の王都より北にあった古い集落から移された石板の写しだった。文字は摩耗し、半分ほど欠けていたが、中央には二頭の狼が向かい合う図が残されている。一頭は黒、もう一頭は銀で、その間には二つの月が刻まれていた。片方の月が欠け、もう片方が満ちる形は、現在の黒曜王家にも月神殿にも残っていない意匠だった。「双月」リュシエナが小さく読むと、古文書官が隣から頷いた。「《双月盟約》です」その名を口にした瞬間、胸の奥の銀狼がはっきり反応した。番拒みの薬がまだわずかに効いているため、ヴァルゼインの黒狼の気配は薄い。それでも銀狼自身が、知らないはずの言葉へ耳を立てるように意識を向けた。懐かしいものを聞いた時のような反応に、リュシエナは胸へ手を当てた。「知







